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(1) 子どもたちの「生きる力」をはぐくむには大人が変わらなければならない
(2) 農の持つ教育力―農村地域とともに開く学びの場
執筆 福島大学教育学部 鈴木庸裕

7 学び手のリアリズムに寄り添う

 本文中で何度か「米づくり」という表現をしたが、米をつくるのは稲である。人間はその生長を支える環境の一部でしかない。実習後に学生たちと作成する報告書の表題も農業ではなく「農の営みと教師教育」としている。
 「枝は木に任せて自由にのばさせた方がいい。そして根を健康にしてあげることが一番大切。枝の剪定は来年の生長を考えての準備である」、「田植え後の最初の草取りの目的は、手で株間を撹拌していく時に文字通り草を取り、田んぼの養分を均等にし、地中のガス抜きや苗の観察をすることなどいくつもある」
 摘果作業や田の草取りでのこうした教えには、今おこなっている自分たちの作業を生産過程全体の中で理解し、みずからの行為の意味と自己の位置を理解する学びがある。これは学生たちにとって、プロセスよりも結果が重視される学校教育の現状に対する問い直しを具体的な体験から実感できる瞬間でもある。
 「肥料をやりすぎても養分が稲穂に集まりすぎて稲が倒れてしまう」
 間接的であれ、農作業の心地よい体験を通じて、このことを学生たちは「つめこみ教育」のマイナス面と結びつけ、これからの教育のあり方を考えていこうとしている。
 同様に、「農業はおじいちゃんの仕事」と思っている農村の小学生や農業を無縁に感じている子どもたちに、ただ農業体験をやろうというのでは苦役になってしまう。農作業の合間に一緒に畑や田んぼで遊んでくれた学生(大人)の存在が小学生の農作業そのものに「快」の経験を持ち込むことになる。
 子どもたちへの食農教育は、知識や技術の習得とともに、そこでの「快」の体験、面白かった、楽しかった、ほめられた体験が大切になる。子どもに限らず青年も「快」「不快」で物事を判断したり理解する傾向が強い。「楽しく達成感をあじわった経験、それが農業体験にあった」という学びのリアリズムがある。
 農業体験が即座に楽しいものというのは、大人(教育者)の一方的な見方かもしれない。
 
写真5 村祭りで神輿を担ぐ学生たち

8 総合的学習を問い直す食農教育

 今年初めて参加したある学生は、大学への車通学での途中、これまで単なる風景であった田んぼへの見方が変わり、飯野の田んぼの様子に思いを馳せたり、車から降りていもち病の様子を見たり、天候そのものが気になるようになったという。自己の体験を、自然や社会全体のつながりの中で確認している。
 この実習を通して学生たちの姿から読みとれるものが三つある。
 一つめが人と人との間(生活)に分け入ってはじめて物事の真理や科学への探求心や問題解決の意欲、自己実現要求が生まれてくること。
 二つめに、人々のいのちやくらしと自分自身との接点に気づくことが、新たな学習要求になること。
 そして三つめが、人と人、人とものとの関係を弱めているものが何かを発見し、つないでいこうとするときに新たな学びが生まれてくること。
 いま、学校での総合的学習の実施に向けて、特色ある学校づくり、地域との連携、ゲストティーチャー制度、学外体験の協力などが地域に押し寄せている。「学校・家庭・地域の連携」という言葉を具体化し、地域が教育や子どもの生活、学習に参加して、学校をひらき、教師との共同的な教育活動を発展していくことは重要である。しかし、近くに田んぼや畑があり協力者がいるから可能なのだという見方では、小中学校での食農教育も不完全になってしまう。「地域に押し寄せている」というのは、「悪しき地域の利活用感覚」への警鐘である。新たな農村の地力の「搾取」だけは避けたいものである。
 総合的学習などに向けて「地域に教育活動の応援団をつくる」と呼んでもいいが、そこで大切なことは、活動する地域そのものの課題と子どもの教育や学習課題を重ね合わせ、その共通点が何であるかを子どもや地域住民とが一緒に発見し改善していくことであり、あるいは改善のための筋道を学んでいくことである。

 農業=教育力ではない。

 「小学校の教科書にある田植えの写真を見ても、その大変さも、達成感も田んぼの泥の感触も実感することはできません」
 実習の中でこうした感想を寄せる学生たちに「じゃあ、どうすればいいのか」という新たな問いを出していく。そこからの取り組みを支えるものが農のもつ教育力といえる。
 
写真6 お年寄りの話に真剣に耳を傾ける
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